初めての方へ
メインメニュー
CD好評発売中!
CDプロモーションバナー
オンライン状況
29 人のユーザが現在オンラインです。 (1 人のユーザが 現地レポート を参照しています。)

登録ユーザ: 0
ゲスト: 29

もっと...
訪問者数
今日 : 2074207420742074
昨日 : 1437143714371437
総計 : 2803701280370128037012803701280370128037012803701
平均 : 731731731
ホームページリニューアルのお知らせ

 

トップ  >  ルワンダ滞在記by Ken Haraguchi  >  ルワンダ滞在記by Ken Haraguchi

―第3 週―


31 日(日) ガチャチャ裁判を傍聴する。


100 万人の大虐殺の実行犯をどう裁くか。
騒動直後のルワンダには当然、司法体制など整っているわけがない。
タンザニアにルワンダ特別国際法廷が組まれたが被告の数が多すぎる上、混乱していてう
まく機能しない。そこで登場したのが、伝統的な裁判方式・ガチャチャ裁判だった。
これは地域のリーダーが数人で裁判団を組みそれぞれの村において、証人と被告、そして
傍聴人(村人)とで裁判を開く、というもの。犯罪はランク付けされ、特に重い犯罪につ
いては国際法廷でプロの裁判官が裁くことが定められている。
これまで人口の10 分の1に当たる約90 万人が裁かれ、その大半が有罪判決を受けたと言
われている。死刑を廃止したルワンダでは「TIG」と呼ばれる公共労働奉仕の刑が主流。
当日、ニャマタでも通訳をしてくれたジャンヴィエさんに連絡を取り、同行してもらった。



ガチャチャ裁判が屋外で行われたケース。



僕が傍聴した裁判の場所は、区役所の二階で行われた。
裁判は2 時間遅れでスタートした。以下、ガチャチャ裁判でとったメモより。



フィアクル被告の裁判。
コンソレーという女性が、「フィアクルがとても怒った様子で手に持ったナタでツチ族の家
を壊して回っていた。ツチを見つけるとホイッスルを吹いて仲間を呼んでいた。」と証言。
そして助けを求めるツチ族をかくまっていたサファリというフツ族が居たことにも言及し
た。フィアクルはサファリの家に押しかけて「なんで俺が奴らを殺すのを邪魔するんだ!」
と詰め寄った、という。コンソレーは虐殺の以前からフィアクルのことを知っており、彼
の態度から彼が虐殺に手を染めたことは分かりきっている、と断言した。被告は証言を否
定した。そのとき突如、傍聴席にいた若い男が立ち上がった。(ガチーニャと名乗る男は、
自分も両親をジェノサイドで亡くしたと言った。)「違う裁判で、ある被告が嫌疑を全部否
定した。だから最初はこの人は無実なのかな、と思った。でも結局有罪になって、判決が
下されたあとになって自分がしたことをあらいざらい吐いて、だから赦してくれ、と言っ
ていた。そのとき、この世には嘘つきが一杯いるんだ!と思った。」と発言した。
(後記:ガチャチャ裁判では、誰かの発言が止められるということはあまりないらしい。
被告席と傍聴席・証人席は、すぐ隣り合わせで仕切りもない。)


2 日(火) 虐殺のサバイバー(生存者)から話を聴く。


佐々木さんが、2 人のサバイバーの方へのインタビューをセットしてくださった。
(本当に思いがけないことで、あんまり嬉しくて佐々木さんが神様のように見えた!)
場所はお二人の自宅。通訳を交えながらそれぞれ1 時間強、話を伺った。
インタビューの前に、短く自己紹介して、自分がルワンダに来た目的について話した。
以下、そのインタビューの内容。


Ms, Judith Siboruhanza
ユディト・シボルハンザさん



― いつ、どこで生まれましたか?
1962 年、キレへ郡のルゲロ村で生まれました。
― ご家族は?
家族の他に6 人の孤児を引き取っていました。女が5 人で男が2 人。
すごいでしょ。
― 小さい頃、ニックネームはありましたか?
両親が忙しかったこともあり、私が子供達の世話をしていたので、
「マムドーゴ」と呼ばれてました。「みんなのお母さん」という意味です。
― 小さい頃の思い出はありますか。
私が8 歳だったとき、父が亡くなりました。詳しくは分かりませんが、
胃の病気だったということです。学費が払えなくなり、小学校を卒業した
後は学校に行けなくなりました。
― 小学校を卒業した後、何をして過ごしていましたか?
母親の手伝いをしていました。
― 家族は仲がよかったですか?
私達はとても愛し合っていました。私も母や子供達が大好きでした。
母さんは子供達全員の結婚相手をどこからか探し出してきました。
私も18 歳のときに結婚しました。
― それじゃ、引越しされたんですか?
えぇ、キガラマに引っ越しました。夫は運転手、私は農場で働きました。
― どういう心境でしたか。
結婚したことはとても嬉しくて、幸せでしたが、家族と離れるのはとても
悲しかったです。母は結婚後もよく私達の家を訪ねてくれました。
― お子さんは出来ましたか?
夫にはヴマホロレアとニャミガアスィマタという2 人の連れ子がいました。私も1983 年に
子供を授かり、ジャン・ポールと名づけました。三人ともとても活発でよく手伝いをしてく
れる子でした。
― 虐殺について聞かせてください。94 年4 月6 日に大統領機が撃墜されました。
ユディトさんが自分の身の回りに異変を感じたのはいつでしたか?
最初に自分の身の危険を感じたのは、事件の1週間後でした。近所の人が来て「お前らは
俺達の大統領を殺したんだ。」と言ったんです。私はなんて言い返したらいいか分からなく
て、すぐに森に逃げました。でも追ってきた武装集団に捕まって、両手を縛られました。
子供達はその後、私の目の前でアカゲラ河に投げ込まれました。私は、子供達が投げ込ま
れた次の日、その武装集団にいた友人によって助けられ、逃げ出すことが出来ました。
私はとても疲れていて野獣や追っ手に怯えながら水もなく、2 日間歩き続けました。
― 逃げている間のことで覚えていることを教えてください。
森の中でトゥワ族の人に会いました。私は最初彼の事を恐れていましたが、その必要がな
いことが分かると彼に抱きつきました。彼は私に食べ物と飲み水を分けてくれ、タンザニ
アにある難民キャンプまで私を連れて行ってくれたのです。
難民キャンプに行くまでの道のりで深く傷ついた人たちを見たこともよく覚えています。
― 難民キャンプでの生活はどうでしたか。
とても大変でした。食料を手に入れるのも難しく「自分の国に帰れ!」と言われたことも
あります。キャンプで私の親類が殺されたと言う話を幾つかの他の村の人から聞きました。
虐殺が終わってルワンダに戻る時、国境でタンザニア兵に止められましたが、RPF が来て
事情を説明したので国境を越えることができ、ニャカランビに戻ってきました。
― 村はどういう状態でしたか?
人々は殺されていました。武装集団の中にいた村人が戻ってきているのも見かけました。
― 今住んでいる家はいつ建てられたものですか?
これは去年、家造りプロジェクトによって建てられたものです。
― ジェノサイドからそれまでの気持ちの変化について教えてください。
村に戻ってきたとき、私はひどく疲れていて、また傷ついていました。人生には意味がな
いのだとずっと思っていました。私の心は他人を赦すことを知らず、悪いものになってい
ました。でも2004 年に政府とREACH が「癒しと和解」の働きを通して私の心を変えたの
です。私は他の人たちと会って話をするようになりました。これから良い人生が私を待っ
ていると考えるようになりました。「神様、なぜ私を助けたのですか?」とお祈りしました。
今は神様が私に対して計画をもっていらっしゃるんだ、と信じています。今は一人ではあ
りません。兄弟の子供を引き取り、彼はもう20歳になります。私は友達も家族も失い、
一人で生きていましたが、つらいときにこそ神に信頼し、感謝することが大事なのだと思
います。



 


 


 


 


 


 


 



 


 



ユディトさんはとても明るく、優しくて
「早くルワンダに戻って来るんだよ!日
本の皆さんに、ルワンダのママからもよ
ろしく伝えて!」と言って下さいました。



 


Ms, Stephania Mukazeimana
ステファニア・ムカゼイマナさん
彼女とは、家造りプロジェクトの現場で一度お会いしている。
囚人に語りかける姿がとても印象に残っている。
「信仰の兄弟が訪ねてくださって本当に嬉しい」と言って下さった。
― 生まれたときの話を教えてください。
ご家族は何人いましたか?
私は1963年にルチラで生まれました。5人の兄弟がいましたが、
特に妹とは仲が良かったですね。
― あなたの名前には何か意味がありますか?
ムカゼイマナ、というのは神の民、という意味です。
― 小さかった時の事で何か記憶に残っていますか?
教会が大好きだったけど、罪を犯したら神様は私を消してしまうんだ
って思いが常にあって、いつも怯えていたのを覚えています。
― 学校には何歳まで行っていましたか?
小学校を4年生までいったあと、学校に行くのを止めて母親の
手伝いをするようになりました。
― 小さいときに、何か94年のジェノサイドにつながるようなもの
を見たり感じたりした思い出はありますか?
私自身の中には、他人への嫌悪感のようなものは全くありませんでした。しかし、何回か
ツチが殺された、という噂を聞くことがありました。そして、私は自分がツチであると知
っていました。私は聖書に書いてあるように「人々はみな同じ」だと信じていましたので、
みんながお互いに嫌いあっているのを見て傷ついていたのを覚えています。
― 94年、あなたのいた地域でジェノサイドが始まったのはいつでしたか?
(大統領機が撃墜された)4月6日から数えて3日目に地域の指導者がフツの男達を集め
始めたと聞きました。8日目に道端で若い男がひどく傷ついているのを見かけました。
10日目に近所の人が殺されている声を聞き、13日目には私の義理の母が殺されている
のを発見しました。15日目、私は山に隠れていましたが、隣に住んでいた人が、私の夫
が襲われていると教えてくれて、急いで家に戻りました。そして夫のいる建物がフツの男
達によって囲まれているのを見ました。彼らは建物の中と外で互いに言い合いをしていま
した。私はフツの男に追い払われるままに逃げ出し、その後、夫は殺されました。私は2
人の子供を連れていましたし、おなかにはもう1人子供がいました。また隠れ家生活に戻
ったときには、もうやっていけないと思って自殺しようと思いましたが、この子供達のこ
とを考えると、どうしても出来なくて・・・。
― その後、どうされましたか?
RPF が来たと聞いて、みんなタンザニアへと向かいました。そして私は7月26日に難民
キャンプの中で男の子を出産しました。私は、本当にトラウマに囚われていましたが、
難民キャンプで出会った信仰の友たちに助けられ、もう一度神様と向かい合う時間を持て
るようになりました。そして私の人生をイェス・キリストの為に奉げようと決心したのです。
12月まで難民キャンプにいましたが、その後自分の村に戻りました。その時、夫の家族
も自分の家族も殺されていたことが分かりました。
― 加害者の人間を見かけましたか?
もちろんです。難民キャンプにもいましたし、村に戻ったときにも見かけました。
ガチャチャ裁判の時にも、TIG(公共労働奉仕刑)の現場でも。
彼らの顔を覚えているんです。
― 辛かったでしょう。
えぇ。しかし神様は私に、このジェノサイドを生き延びた、という経験と命を与えてくだ
さいました。わたしは加害者側の人たちが、罪を懺悔できるように勇気付けたいと思って
います。神様は私達の罪を赦してくださいましたから、私達もお互いに赦しあいながら
生きていかなければなりません。今も、憎みあい争った歴史の傷に直面すると、辛いです。
そのことを思うと、他人を赦す、という行為はとても不可思議ですが、本当に、私達の
理解を超えたところで赦し、ということは起こってくるのだと思います。私は、自分の
経験から「赦さない心は重荷である」ことを知っています。
私もジェノサイドのあとにはフツの男の人と話すことなんて考えられませんでした。
しかし、私達はみな神様の子供です。私はその時、自分の中にある罪に気付きました。
私は、難民キャンプの中でフツの人たちの中でも争いがあることを知りました。
争いの原因は誰が何民族か、ということではありません。
私達が神様との関係をどう持つか、が問題なのです。



真ん中に座っているのは、息子さん。虐殺の時におなかの中にいた。もう14 歳になる。


ステファニアさんとユディトさんは、加害者を赦すことを宣言し、今もREACH の
セミナーに招かれてその体験を語ったり、過去の重荷に苦しむ兄弟姉妹に寄り添う
活動をしている。



3 日(水) 青年合唱団と交流。


REACH の青年グループの中で合唱団が結成され、CD が作られた。
日本でその歌声を聞いてからずっと、彼らを訪ねたい、と思っていた。
今回、その合唱団が活動している村の近くでセミナーが開かれる、ということなので、
セミナーの前日に青年合唱団を訪ねることが出来た。




まず佐々木さんから、日本で今回売り出したCD を多くの人が買ってくれ、多額の売り上
げがあったことを聞くと、みなさんが大喜びして拍手した。この収入をいかに用いるかは、
これから合唱団内で話し合われるという。
是非、唄を聞かせていただけませんか、とお願いすると快く了解してくださった。



生唄に感動



指揮者の元、ひとつの唄をそれぞれの音域に合わせて共に歌う。
美しい合唱は「一致」の理想形なのかもしれない。
そしてこの合唱団は単なる「唄が好きな人たちの集まり」ではないのだ。
歌声に秘められたメッセージを深く噛みしめた。



「Mana Tabara (主よ、助け給え)」
この世は複雑だああ主よ多くの問題に直面し
憎しみに囚われた人々で溢れ愛は絶えてしまいました
助けてください主よルワンダ人全てを救ってください
船は転覆寸前なのです溺れる前に助けてください(中略)
あぁ父なる神よすべてのわれらルワンダ人には
一致と和解真の正義が必要なのです
それがシオンに続く道なのです



 


4 日−5 日(金) 女性の為のセミナーに参加。


ルワンダには郵便システムがない。地方に出れば、インターネットもない。
セミナーをするときは、どうやって告知をするのだろう?と思ったら、
地域の誰かに頼んで告知して回ってもらう、ということらしい。
だから当然、申し込みもない。
セミナー当日の朝も、佐々木さんは「何人来るかなぁ。」と不安そうだった。しかし、
セミナーが始まる時間になると、なんと主催側が想定していた倍近くの人が集まっていた。
予算の都合上来た人全員、というわけにもいかず、半数の人には今回は諦めて貰う事に。
地域の人にREACH の働きが強く求められていることがありありと伺えた。




セミナーは、力強い賛美によって始まった。ジェノサイドが何故起こったのか、という
歴史のレクチャーに始まり、その後REACH の牧師が聖書における和解の説教がされた。
マタイ28 章のイェスの墓が開けられる箇所から、神にすべてを委ねて救い主イェスと共に
復活させて頂きなさい、という力強いメッセージが語られた。
参加者は、ジェノサイドによって家族を亡くした女性が主だが、夫がジェノサイドの罪で
刑務所にいる女性や、中にはジェノサイドの時に加害者側に協力した元囚人の女性もいた。
証の時間や小グループでの分かち合いのあと、みんなで共に食事を頂いた。
「赦しというのは、過去を忘れることじゃなく、違う形で過去の事を捕らえなおすこと。」
と、あるときに佐々木さんがおっしゃっていたのを思い出した。
そして、それはとても一人では出来ない作業なのだ。
最後には参加者一人ひとりが明るい顔をして、セミナーの会場をあとにしていった。



10 日−11 日(木) 囚人の為のセミナーに参加。


直前まで政府との調整が続いていた囚人の為のセミナー。
やはり他のセミナーとは違うものなのだろう。少し緊張した空気の中、当日の朝が来た。
このセミナーも、女性の為のセミナーと同じプログラムで進んだ。
僕が驚いたのは、囚人達が女性達と同じように賛美歌を力強く歌っていたことだった。
フツもツチも虐殺以前は一緒に教会に行って礼拝をしていた、ということを話には聞いて
いたが、僕の中ではやはりなんとなく「人殺し」のイメージがつきまとい、それが
「賛美歌」のイメージとは結びついていないのだった。
しかし、彼らは虐殺から14 年経つ今でも、多くの賛美歌を暗誦しているのだ。
彼らにとって、賛美とはなんなんだろう?彼らの話を聞きたい。なにを思っているのか、
知りたい。小グループで分かち合いをする彼らの脇でルワンダ語が理解できない自分を
ひどく腹立たしく思った。



この人たちの殆どが人を殺した経験を持つことは、にわかには信じられない事実だ。



会場の教会の入り口に立ってセミナーを見学していた時、ある疑問が湧き上がってきた。
「キリスト教ってなんなんだろう?何がよい知らせなんだろう?救いって何?」
しばし考えてみた。
神様は「それは私の民である。(創世記17:8)」という契約を人間と結んだ。
その契約には条件があった。それは人間が神に従うこと。
しかし、イェスが伝えたのは、神がその契約を乗り越えて私達に届こうとする姿だった。
彼は罪びとの元を訪ね、神のメッセージを、神の愛を伝えた。それは新しい契約。
神は私達を愛し、契約主ではなく奴隷のようにして私たちの所に来てくださった。
そして・・・私達はそれを受け入れることができない。
「あいつは神様に見放されてるんだ。」「自分が神様に愛されているなんて有り得ない。」
私達は「選別する神」を求めている。そして、それを恐れているのだ。
イェスを待っていたのは、怒りに燃える群集と十字架刑だった。
そしてイェスはその人々のもつ恐れをも一身に受けたのだった。
なぜ十字架はそこまで重要なのだろう。
なぜ、誰かの血が私の汚れをぬぐうことができるだろうか?
それは実に十字架が、イェスの苦しみが、神が罪を犯し続ける私に、神の愛に向かい合え
ず「やつを十字架につけろ!」と叫ぶ私に、手を差し伸べて下さっている証だからだ。
十字架のイェスに向かってあらゆる怒り、呪いの言葉を叫ぶ群衆の中に、僕は自分自身の
姿を見たような思いがした。



REACH の活動は、けして「可哀想な人たちの為の社会奉仕活動」にとどまらない。
彼らは世の中に見捨てられ、誰にも助けを呼ぶことができない人たちのところに
出かけていき、「神と隣人と共に生きる道を歩め。」という神様のメッセージを届けていた。
僕はその姿から「キリストに従う者の生き方」について深く考えさせられた。






 


 


 


 


 


 


 



 


空いた時間に佐々木さんがドライブに連れて
行ってくれた。ジェノサイドの時、多くの人が
投げ込まれたというアカゲラ河。ユディトさんが
子供を投げ込まれたのもこの河だった。
河はやがて激しい滝へと続く。
多くの人は、まだこの激しい流れの最中にいる。
そして僕はその翌日、キガリ空港から日本へと向かう飛行機に乗り込んだ。
帰るときが来たのだ。





 



日本に帰ってきてしばらくは、頭の中がパンク状態のままで過ごした。
この一ヶ月の間あまりにも多くのことがありすぎ、その一つ一つが現実離れしていた。
今回、文章化しなかった場所や話も山のようにある。
特にルワンダの貧困問題については、他のあらゆることがバカバカしく思えるほどだった。



今回、「赦し」をテーマにこの旅に臨んだ。
そして得た答えは「その人が赦す、と決めたのなら
その罪は赦されるのだ」というシンプルなものだった。
罪は私の中にあるのではなく、私と誰かとの間にあるものなのだろう。
「赦し」はそういう意味ではある種の約束のようなものなのかもしれない。
そして、この旅は人がその赦しに至るまでの苦しさを目撃する旅でもあった。
「赦さない心は重荷だ。」とおっしゃったステファニアさんを思い出す。



ルワンダのすべての人が、目を上げ、神様を見上げながら共に生きていける日が来る事を
切に祈る。そして僕もまた、そこで働かれる主イェスに従いたいと思うのだ。



最後に、今回の旅を全面的に支えてくださった佐々木ご一家に心より感謝したい。
神様が与えてくださったルワンダでの多くの出会いを、心より、感謝したい。



原口建

プリンタ用画面
前
ルワンダ滞在記by Ken Haraguchi
カテゴリートップ
ルワンダ滞在記by Ken Haraguchi
佐々木さんを支援する会 Copyright © 2005-2008