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トップ  >  寄稿  >  キリスト教系NGOの挑戦 修復的正義による和解を目指して

本稿は、知人の韓国人大学教授の依頼を受け、韓国で出版が予定されているルワンダに関する書籍のために寄稿したレポートです(2010年3月執筆)。

キリスト教系NGOの挑戦 修復的正義による和解を目指して

「悲しいくらい美しい国ですね。」最近ルワンダに訪ねて来た友人が私にそう言った。幾重にも連なる緑の丘に朝靄が立ち込めている時など、私もルワンダは美しい国だとつくづく思う。今から16年前、このため息の出るような美しい大地が血に染まったことなど、誰に想像することができるだろうか。
1994年の4月から7月、わずか100日あまりの間に80万人が惨殺されるという、未曾有の大虐殺が起きた。それは、多数派であるフツが支配していた政権内部の強硬派がフツの一般住民を動員し、少数派のツチとフツの反政府分子の殲滅を謀った「ジェノサイド」、すなわち集団殺戮であった。
日本では、つい5年前に公開された『ホテル・ルワンダ』という、ジェノサイドに関する映画を通して、ルワンダが一般的に知られるようになった。そのため、ルワンダと言えば、「ジェノサイドが起きた悲惨な国」、「民族紛争が深刻で危険な国」といったイメージを持ち続けている人々が少なくない。しかし、1994年のジェノサイドから16年、ルワンダの人々が行なってきた「和解と共生」に向けての取り組みから、私たち自身が学ぶべきことは非常に多い。本稿では、私のルワンダとの出会い、そして、人々の和解と共生への歩みを後押しする目的で実施してきたNGO活動について紹介する。

アフリカで痛感した平和の尊さ

 私は日本の大学で熱帯地方の農業について学んだ後、国際協力NGOの職員として、1988年から2000年まで、エチオピアの農村に住む人々の生活向上のために働いた。1991年までは、30年間続いた内戦の戦況を見極めながらの活動であった。北部の活動地にまで戦火が及び、撤退を余儀なくされたこともあった。1998年には、エリトリア(1993年にエチオピアから独立)との間に国境紛争が勃発。激烈な戦争により、双方の死傷者は10万人、戦災避難民に至っては100万人に達した。私の活動地域からも、若者たちが強制的に戦場に送りこまれていった。また、物価が急激に上昇し、一般庶民の生活は困窮を極めるようになった。私はその時、積み上げてきた開発協力の成果が、戦争によってもろくも崩れ去るのを目の当たりにしたのだった。
国内のメディアは戦意高揚のためのプロパガンダ一色になり、戦争反対を公に訴える者はほとんどいなかった。私が所属していた団体も含め、当時エチオピアで活動していた国際協力団体も沈黙を保った。「政治的」な発言をすれば、政府から目を付けられ、国外追放の危険に晒されることが分かっていたからである。
毎晩、自宅近くの空港からジェット戦闘機が飛び立つ轟音を聞きながら、無力感にさいなまれ、眠れぬ夜を何度も過ごした。そして、「このままではだめだ。紛争を無くし、平和を維持するための活動に関わらなければ」と思うようになったのだった。

教会までが虐殺の舞台に

 エチオピアでの任期を終える直前の2000年5月、私は生まれて初めてルワンダを訪れた。私は、その年の秋からイギリスの大学院で平和構築について学び始めることが決まっており、その学びを始める前に、何としても「紛争後の平和構築」の現場を見ておきたいと思ったからだ。その当時ルワンダは、国連や国際NGOなどがその分野の活動を重点的に進めていることで知られる国であった。
ルワンダ到着の翌日、全国各地に点在する虐殺記念施設の一つに出かけた。それは、ツチ避難民の殺戮の舞台になったカトリック教会の聖堂だった。「教会に行けば、助けてもらえる!」と思って逃げ込んだ数千もの人たちが、乗り込んできたフツの民兵たちにほぼ皆殺しにされた。聖堂の内壁にはどす黒い血糊がべっとりと付いていた。それは、幼い子どもたちがツチであるというだけの理由で、頭を叩きつけられて殺されていった場所だ。飛び散った血糊は天井や床にも黒いシミとなって残り、犠牲者の遺骨が放置された地下室には死臭がたちこめていた。私は、「このようなことが起きてしまった国で、人々が共存していくことなどいったい可能なのだろうか?」との思いを抱きつつ、その殺戮現場となった教会を後にした。
 

【 虐殺の舞台となった聖堂の内部 】


あの時どこにいたのか?

 その時以来、私はルワンダに毎年のように足を運ぶようになった。博士論文の研究テーマも「ルワンダ大虐殺後の正義と和解」の問題に絞り、草の根の人々から聞き取り調査を始めた。調査期間中、現地の人たちから「この調査が私たちにとって何のためになるのか?」という質問を繰り返し受けた。その度に私は、「この調査の後、平和と和解のために活動を立ち上げたいと思っている。ルワンダの状況をよく理解するために、皆さんの話を聞かせて欲しい!」と言い続けた。それに応えて、多くの人たちが、大虐殺や内戦当時の凄惨な体験、悲しみ、怒り、やりきれない思い、そして希望について語ってくれた。
こんなこともあった。虐殺生存被害者(genocide survivor)への福祉支援を管轄する政府機関の事務所で、何人かの職員から話を聞いていた時のことである。「仕事の内容について教えて下さい」という私の質問を遮るようにして、自らも虐殺生存被害者であるという一人の男性職員がこう言ったのだ。「質問に答える前に聞いておきたい。1994年の4月から7月、あなたはどこにいましたか?」私は返答に困り、しばらくの間言葉を失った。その男性は、大虐殺を黙殺した国際社会に対して抱いている怒りを私にぶつけてきたのだった。
私とルワンダとの繋がりは、このようにして深まっていった。そして、大学院での研究を終えるまでには、次の進路として、ルワンダで活動を始める以外の選択肢が考えられなくなっていた。しかし、ある一つの国で、自分で決めた目的のために、長期間取り組ませてくれる平和構築の仕事はそう存在しない。そこで、学生時代からお世話になってきた日本のキリスト教会の牧師の方々に思いを打ち明け、日本で支援グループを結成してもらうことになった。約1年がかりで「ルワンダ人による平和と和解の取り組みを支援する」という趣旨に賛同して下さる方々を募った。2005年に準備が整い、4年来の付き合いであるルワンダ人の牧師が創設した現地の平和構築NGO、REACH(Reconciliation Evangelism and Christian Healing)の一員として活動を開始することになった。
 

【新たに発見された虐殺犠牲者の埋葬式】

和解と共生に向けての歩み

 わずか16年前の1994年、大量殺戮という巨大な暴力を経験したこの国の人々にとって、「和解と共生」とは限りなく重く厳しい課題である。犠牲者の数は少なくとも80万人、当時の人口740万人の9分の1に当たる。主な標的にされたツチの75パーセントが惨殺された。一方、殺人や傷害等で有罪判決を受けた虐殺加害者(そのほとんどがフツ)は少なくとも35万人に上ると見られる。現ルワンダ政権は、虐殺を首謀し国民を扇動した当時の指導者層については厳罰に処する方針を崩していないが、一般の虐殺犯に関しては、罪を認めさえすれば刑期を大幅に軽減し、道路工事や開墾などの公益労働刑に従事させた後、地域社会へ復帰させる方針を取っている。
被害者遺族の心情を思えば、加害者は少なくとも無期懲役に処すべきだ、と思われる読者もおられることだろう。しかし、世界の最貧国の一つであるルワンダには、莫大な数の受刑者を拘留し続けるために国家予算を割く余裕は無い。それでは数十万人を死刑にすることが現実的な選択だろうか?そんなことをすれば、二つのエスニック集団間に渦巻く怨念が深まり、新たな衝突の火種になりかねない。それでは、せめて被害者側の人々が加害者たちの顔を見ないで暮らすことは出来ないだろうか?実はそれもほぼ不可能である。ルワンダはアフリカで最も人口密度の高い国であると共に、フツもツチも数世紀に渡って同じ地域に混在して暮らしてきた。そのため、被害者側と加害者側の人々が、別々の地域に分かれて住むことは困難だ。ルワンダは今、「虐殺の当事者同士が再び同じ村や町で暮らさなければならない」という、想像を絶する困難な課題に取り組み始めているのである。


 
【民衆参加によって実施されてきた虐殺裁判】

「修復的正義」の実現を目指して

 ルワンダ人の和解と共生への試みの一つとして、今から3年前、私がルワンダ人の同僚たちと立ち上げた「償いの家造りプロジェクト」について紹介しよう。それは、自分が犯した罪を認めたことにより、拘禁刑の代わりに公益労働刑を科された虐殺加害者が、被害者の家族のために家を建てるプロジェクトだ。そのきっかけは、REACHが大虐殺後の心の癒しのために実施してきたグループ・カウンセリングの参加者の中に、劣悪な居住環境に置かれている人々が多数いたことだった。彼女たちの多くは、大虐殺当時に家を破壊され、それを再建できずにいたのだ。そして、加害者からの真摯な謝罪とできる限りの償いを求めていた。そこで、公益労働刑の受刑者による「償いとしての家造り」を始めるのはどうだろうと提案し、女性たちの賛同を得たのであった。
このプロジェクトの理念的なバックボーンになっているのは、「修復的正義」(restorative justice)という考え方だ。近代的な刑事裁判制度の多くは、加害者が犯した罪の重さに応じて懲罰の重さを決定する「応報的正義」の考え方に基づいている。そこで重視されているのは、法を犯した「加害者を罰する」ことである。それに対して修復的正義は、加害者を罰すること以上に、犯罪行為によって被った損害から「被害者が回復する」ことを重視する。そして、加害者の罪の自覚を深め、出来る限りの「償い」に取り組ませることにより、両者の関係修復を試みるのである。
私たちが修復的正義の実現を目指したプロジェクトを始めるにあたり、最大の問題は、どのようにして受刑者たちの罪の自覚を深めるかであった。既に述べたように、公益労働刑の受刑者は罪を認めることによって減刑処分を受けた人々である。しかし、私はそれまで何人もの虐殺加害者から聞き取り調査をしてきた経験から、彼らの罪の自覚が決して深いものではないと認識していた。「政府の命令に従ったまでだ」、「やらなければ自分の命が危なかった」、「自分は襲撃についていったに過ぎない」等、度々耳にしてきた虐殺加害者の罪責告白の多くは、自己責任の矮小化と他者への責任転嫁という共通の特徴を持っていたのである。(私はここで、アジア諸国における旧日本軍や官憲による数々の残虐行為が、天皇の命令によるものとして片付けられ、日本人個人の罪責がほとんど問われてこなかったことを思い起こさずにはおれない。)

加害者が被害者と出会うとき

 家造りに着手する前に、私たちは政府から許可を得、公益労働刑の受刑者たちを対象に学習会を実施した。その目的は、虐殺加害者である参加者の一人ひとりが、1)被害者が失ってしまったものの大きさや受けた傷の深さについて理解を深めるのを助ける、2)それらの危害を与えた者の責任として、真実の告白、謝罪、弁償等の行為を通して、出来る限りの償いをしていくように促す、3)彼らが科されている公益労働刑、特に今回の家造りプロジェクトを、被害者の癒しと生活再建に役立つ「償いのプロセス」として理解し、誠意を持って取り組むように動機付けをする、の三つであった。
 しかし、単なる講義やディスカッションで罪の自覚が深まるものでは無い。一人ひとりの罪状を言い聞かせ、「自分のやったことが分かっているのか!」とどやしつけでもすれば、心を閉ざすことはあっても開くことは無いだろう。「政府の命令だから仕方が無い」、「あの時はみんなが異常だった」等々、言い訳はいくらでもあるのだ。
そこで私たちは、REACHの活動に参加することで、虐殺によって受けた精神的なダメージからかなりの程度回復した虐殺生存被害者の女性たちに力を貸してもらうことにした。虐殺当時の体験と、その後どのような思いで生きてきたのかについて、学習会の参加者に直接語りかけてもらうことにしたのである。


 
【学集会で虐殺加害者に語りかける被害者女性】


 二回目に実施した学習会の二日目に、アニエスさんという女性に証言をお願いした。彼女はそこで、以下のような凄惨な体験について語ってくれた。彼女自身は虐殺で殺す側にまわった多数派のフツなのだが、ツチである夫をフツの襲撃者たちによって拉致され殺された。その後、彼女も捕えられ、首に縄を結びつけられて、村役場の前の広場まで引っ張っていかれた。そこでその男たちは、「ツチに嫁いだ裏切り者め!」と言って彼女を集団でレイプした。その時の後遺症により、彼女はひどい腰痛に苦しみ、長い間深い憎しみを抱き続けてきた。そればかりか、悪夢のために夜中に飛び起きたり、男性とすれ違う度に身震いが止まらなかったりしたことなどを、時には苦痛に顔を歪めながらも語ってくれたのであった。約50人の参加者は、彼女の証言を、息を呑むようにして聴いていた。
学習会の参加者を含め、ルワンダで虐殺に加担した大多数の加害者は、それまで犯罪歴などない「普通の人々」であった。ツチを徹底的に非人間化するイデオロギーを擦り込まれ、また、体制側に立たなければ自分が殺されるかもしれない、という恐怖心に駆られて残虐行為に手を染めたのだ。「ゴキブリを叩き潰せ!」というスローガンが連呼される状況の中、あたかもモノであるかのように山刀で斬りつけた相手が、人格を持った生身の人間であったということを感じ取ること、被害者の痛み、悲しみ、そして無念さを少しでも心で受け止めることから真の償いの歩みが始まるのである。


 
【アニエスさん】

 さらにアニエスさんは、どのようにして憎しみや恐怖心を乗り越えていったのかについても以下のように証言した。そのきっかけは、数年前にRAECHのグループ・カウンセリングに参加し、初めて自分の気持ちを吐き出す機会を得たことだった。そこには、彼女のような虐殺の被害者側の女性たちだけでなく、加害者として服役中の夫を持つ女性たちも集っていた。最初は、「敵側」の女性たちの顔を見るのもいやだったが、お互いの体験や思いを聴き、語り合う中で、同じ女性として負わされている苦しみや課題があることに気付いた。そして、協働グループを作って、家畜銀行や籠作りに取り組むなかで、仲間意識が生まれたのだった。また、REACHの集会で虐殺加害者と出会い、涙ながらの謝罪を受けたときから、彼らは虐殺に加担するように強いられた被害者なのだと思えるようになった。彼女は、これらのことを時には笑顔を見せながら語ったのだった。
そしてその後、会場にいた牧師に聖書の箇所を一つ読み上げて欲しいと伝えた。それは、以下の言葉であった。
だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自身と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました…
新約聖書コリント人への第二の手紙5章17節・18節
この聖書の言葉が会場にこだました後、彼女はこう言い放った。「私にはもう憎しみはありません、恐れもありません。私は新しく創造された者になったからです!」「以前は、いつも憎しみが疼いてどうしようもありませんでした。しかし今、私の心には神によって平安が与えられています。今は誰に対しても憎しみを抱いていません!」そして、参加者たちに続けてこう語り掛けた。「まだ被害者の家族の所に行って直接謝罪していないのでしたら、どうぞ彼らを訪ねて下さい!勇気を出して罪を認め、真実を語り、赦しを受けるために一歩踏み出してください!そうしたら、皆さんは赦してもらえるでしょう。私は既に謝罪のために尋ねてきた7人の加害者を赦しました!」
彼女の語りかけに多くの参加者たちは意表をつかれたに違いない。被害者である彼女にどやしつけられるかもしれないと思っていたのに、あろうことに励ましと赦しの言葉を投げかけられたのだから。このように、家造りプロジェクトの参加者たちは、憎しみを乗り越え、加害者の赦しに向けて歩みだした被害者と出会い、励ましを受ける中で、刑罰として仕方なくするのではなく、心からの償いとしての家造りに取り組む決意を固めたのだった。


 
【建築現場でプロジェクトの参加者及び受益者と】


尊厳の回復を目指す家造り

 2007年6月、受刑者たちによる家造りが始まった。日干し煉瓦を組み上げて出来る、広さ約15坪の家である。母屋とは別に料理小屋と屋外トイレも造る必要がある。雨季には作業を中断しなければならない時もあるが、10名前後のチームで週6日働けば、2ヶ月程度で完成する。まず、粘土質の赤土に藁を混ぜたものに水を注ぎ、足踏みをしながら良くかき混ぜる。次にその泥を木製の型枠に押し込んでできる直方体を、天日に干して煉瓦を造る。一番の重労働はなんといっても水汲みだろう。建築現場から徒歩で1時間の距離にある水源から、20汎りのポリタンクをかついで運んでくるのだから、私であればすぐに音を上げてしまうだろう。
黙々と日干し煉瓦を組み上げる受刑者たち。その表情は真剣そのものだ。訪問客数名と建築現場を訪ねたある日のこと、受刑者の一人が私たちに尋ねた。「虐殺当時、私たちはまるで獣のようにひどいことをしました。外国人の皆さんは、私たちルワンダ人を獣同然と思っておられたかもしれませんね。今の私たちはどのように見えますか?」私は、この受刑者の問いかけに、彼の心の奥底からの叫び、「私は獣同然、否、獣以下のことをしてしまった。でも、人間なんだ!」という叫びを聴いたように感じた。プロジェクトの参加者の多くが、当時の権力者たちの命令に従ってしたこととはいえ、かつて殺戮、略奪、家屋の破壊等に関与した人々だ。破壊した家を、自らの家で建て上げていくこと。それは、彼らが自らの尊厳を取り戻していくプロセスでもあるのだ。
 

【日干し煉瓦の家造りに取り組む受刑者たち】

見え始めたプロジェクトの成果

 このプロジェクトにはこれまで200名の虐殺加害者が参加し、25軒の家を建て上げた。受益者とその家族が、立派な「我が家」を手に入れた喜びは、私たちの想像を絶するほどに大きなものである。兄嫁の家に子どもと一緒に身を寄せ、肩身の狭い思いをしてきたステファニアさん、雨漏りのひどい小さな掘っ立て小屋の中で、年老いた母、そして3人の子どもたちと重なり合うように寝なければならなかったマデリナさん、借間の家賃を滞納し、追い出される寸前だったユディタさん… 家を手に入れた彼女たちの顔は確実に明るくなった。
昨年実施した調査によると、大多数の受益者が「以前よりぐっすり眠れるようになった」などと答え、プロジェクトが受益者に対して精神的に良い影響を及ぼしたことが明らかになっている。また、受益者である虐殺生存被害者たちが加害者に抱いている感情にもポジティブな変化が見られた。「以前に比べ加害者に対する恐怖心が弱まった」と受益者の85佑答え(残りの15佑亙儔修覆掘△發靴は以前から恐怖心は無かったと返答)、「以前に比べ加害者に対する怒りが弱まった」と答えた受益者は90佑望紊辰拭併弔蠅10佑亙儔修覆靴畔崚)。同様に、大多数の受益者(90諭砲「以前より被害者側の家族と加害者側の家族の関係が良好になった。」と答え、プロジェクトの「和解効果」を高く評価した。
 

【関係の回復を目指して続けられる家造り】

これからも続く償いの取り組み

 プロジェクトに参加した虐殺加害者のほとんどが既に刑期を終え、自分の村で家族との生活を再開している。しかし、彼らの償いの取り組みはまだ終わっていない。半年前のこと、プロジェクトOBたち50名を対象にした学習会の後、タデヨさんという元受刑者から手紙を受け取った。そこには、同じ村で粗末な小屋に住んでいる虐殺生存被害者の女性のために、仲間と一緒に無償で家造りに取り組みたいとの思いが綴られていた。
早速タデヨさんや仲間の元受刑者たちと面会し、彼らの意思を確認した。彼らの熱意に心打たれた私たちは、すぐに建築資材の購入費を負担することを決定。かくして、プロジェクトOBたち15名による自主的な家造りが始まった。農民である彼らは、週に3日間家造りに取り組み、残りの3日間を農作業にあてた。最初の受益者に選ばれたのは、虐殺により夫と2人の子どもを失い、家族でただ一人生き残ったヴァレリヤさんだ。虐殺の後、ある男性に第二夫人としてかこわれ、2人の子どもを儲けたが、後にその男性が失踪、子どもたちと一緒に直径3メートルにも満たない雨漏りのひどい小屋で暮らしてきた。
日本からの数名の来訪者と共に家造りの現場を訪問し、ヴァレリヤさんから話を聞く機会があった。「これで雨漏りの心配もいらない。彼らには本当に感謝している」と語る彼女の表情は、その時まだ硬く険しかった。その彼女に、「あなたにとって何が希望ですか?」と来訪者の一人が尋ねた。すると彼女は一言、「この光景が希望です。」と答えた。彼女の視線の先では、元受刑者たちがきびきびと作業を続け、その周りで近所の幼い子どもたちが砂遊びに夢中だった。ヴァレリヤさんの家は既に完成し、私は、彼女の表情が柔らかくなったと感じている。一方、タデヨさんたちは、材料費が確保でき次第、少なくともあと3軒の家を造りたいと言っている。そのように語る彼らの表情も明るく穏やかだ。更に嬉しいことに、他の二つの集落でもプロジェクトに参加した元受刑者たちによる自主的な家造りがこれから始まろうとしている。
 

【完成間近のヴァレリヤさん(左から四人目)の家の前で】


希望の光を消さないために

 私が家族と共にルワンダに暮らし始めてもうすぐ5年になろうとしている。多くの来訪者から「あとどれ位いるつもりですか?」と尋ねられる。その度に私と妻は、「まだ決めていません。できるだけ長くいたいですが…」と答える。「なぜルワンダにそこまで?」と問われるならば、神様の不思議な導きとしか言いようが無い。しかし、それほどまでにこの国に惹かれるのは、大虐殺後の和解と共生という困難な課題に向き合い、懸命な努力を続けている人々から、私たち自身が希望をもらっているからに他ならないと思う。
ルワンダで紛争が再燃しないという保証は、今のところどこにも無い。この国の人々は、これからも真の和解と共生のために長い道のりを歩んでいかなければならないだろう。想像を絶する深い悲しみを負いながら、それにもかかわらず前を向いて生きている人々への支援をこれからも続けていきたい。彼らが灯している希望の光を決して消してはならない。その希望が、次の世代を担う若者たちにしっかりと受け継がれ、やがてこの美しい国に真の平和が実現するように。

著者プロフィール

 佐々木和之(ささき かずゆき) 2000年に初めてルワンダを訪れ、大虐殺の事実に衝撃を受ける。その後、ブラッドフォード大学平和学部にて紛争後の平和構築について研究(平和学博士)。2005年からルワンダの現地NGO「REACH」 (Reconciliation Evangelism and Christian Healing) の職員として、大虐殺後の和解と共生の歩みを支援するプロジェクトを展開。日本バプテスト連盟国際ミッション・ボランティア/関東学院大学「キリスト教と文化研究所」客員研究員
ホームページ http://rwanda-wakai.net

 

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